【時代考察】弥生〜古墳時代|卑弥呼と倭の五王はなぜ大陸に使者を送ったか?

大阪府立弥生文化博物館/卑弥呼の人形

3世紀後半の一時期と4世紀後半から5世紀にかけて、日本が中国王朝と交流した記録が、中国の歴史書に残されているそうです。
この3世紀後半の一時期に使者を送ったのは、邪馬台国の女王である卑弥呼。
そして、4世紀後半から5世紀にかけて使者を送ったのは、当時「倭(わ)」と呼ばれていた日本の5人の王:倭の五王だと言われています。

疑問:なぜ大陸に使者を送ったか?

航海技術が極めて未熟だったと考えられるこの時代、命がけで使者を派遣したのにはどんな理由があったのか、とても気になります。

なぜ卑弥呼や倭の五王たちは大陸に使者を送ったのでしょうか?

野口
今回はこの点について、独自の目線で時代考察をしたいと思います。

独断と偏見の時代考察です。あらかじめご了承ください。

卑弥呼を考察する

卑弥呼は『魏志倭人伝』など中国の書物に名前が残る、邪馬台国の女王です。
魏の皇帝から「親魏倭王」の称号と印を与えられたと伝わります。
卑弥呼は巫女やシャーマン的な立場で国を治めたそうで、卑弥呼は実在したのか、邪馬台国はどこにあったのかと今でも謎に包まれていて興味がわきます。

子どもの頃に勉強した日本の歴史で「卑弥呼」や「邪馬台国」の文字を目にしたとき、なんだか落ち着かない気分になったことを覚えています。
卑弥呼や邪馬台国に、書き慣れない漢字が含まれていたからでしょうか。

どちらの言葉にも、あまりいい意味ではない漢字が使われていると思うのです。
ヒミコの「卑」は卑しい(いやしい)、ヤマタイコクの「邪」は「よこしま」と読み、邪悪や邪険などの言葉に使われます。

日本語は、音は古来から共通だそうですが、文字の持つ意味は古代と現在では違っていたのかもしれません。
けれど、自分や周りの人が名前をつけるときに、あえてこの漢字を使うのだろうかと疑問に思います。これは今回の考察において興味深いポイントかもしれません。

倭の五王を考察する

中国の『宋書』倭国伝によると、5世紀には讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)とよばれる倭の五王が中国南朝の宋につぎつぎに使いをおくったという。

山川出版社「もういちど読む 山川日本史」より

雄略天皇:Published by 三英舎 (San’ei-sha) – “御歴代百廿一天皇御尊影”, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=27206405による

「倭の五王」とは、讃・珍・済・興・武の、5人の倭の王のことです。
讃は、仁徳天皇(または応神天皇・履中天皇)・珍は、反正天皇(または仁徳天皇)・済は、允恭天皇・興は、安康天皇・武は、雄略天皇と伝わります。

武の雄略天皇説は有力かもしれませんが、真偽は定かではありません。
中国の歴史書を読んだ記紀(古事記と日本書紀をまとめてこう言います)の編纂者たちが、天皇家の正当性と格式のために意図してこじつけたのかも……と考えると面白いかもしれません(笑)
人類や日本のはじまりの歴史を顧みると、天皇家もはじめは小さなクニのひとつだったと考えられるからです。

この倭の五王たちは、およそ1世紀の間に9回の使者を送りました。
もちろん使者を送るだけではなく、宋に向けて多くの貢物を送り届けたのです。

私の結論:中国と冊封関係を結ぶため

「なぜ大陸に使者を送ったか?」の答え「中国と冊封関係を結ぶためだと、私は考えます。

中国王朝は清の時代(1616-1912)まで他国と対等な外交関係を結ぶことはありませんでした。
中国王朝は世界の中心だという「中華思想」のため、周辺諸国は配下であると考えたのでしょう。
そこで登場するのが「冊封(さつほう・さっぽう)」です。

冊封とは、称号・任命書・印章などの授受を介して、中国皇帝と周辺諸国の名目的な君臣関係を伴なう、外交関係の一種です。(Wikipediaより要約)
日本の武家社会で「御恩と奉公」という言葉がありますが、この封建制度と同じような関係性です。

簡単に言うと、中国と周辺諸国が、親分と子分の関係になるということです。
冊封を受けた国である子分だけが親分に貢物を送ることが許され、親分は返礼品や称号などを与えます。
また子分が求めれば、中国は援軍を派遣して子分を助けたそうです。

研究者の中には、日本は一度も中国と冊封体制になっていないとおっしゃる先生もいらっしゃいます。
けれど私は、少なくとも卑弥呼の時代には、何らかの冊封体制があったと考えます。

その根拠は、「親魏倭王」の称号と印をもらったという中国の歴史書『魏志倭人伝』の記載と、江戸時代に発見されたという「漢委奴国王印」と記された金印の存在です。

「親魏倭王」の称号を授けられ、「漢委奴国王印」の金印が実在するということは、中国の皇帝から「あなたを日本の王と認めます」という、冊封の前提である認定証のようなものを授けれらたということです。

称号と印を授けられた出来事が、中国と冊封体制にあったことを物語っています。
卑弥呼や邪馬台国の文字に好ましくない漢字が使われるのも、中華思想に裏付けされた冊封が理由でしょうか。

卑弥呼の場合には、冊封のために使者を送ったのではなく、結果、冊封を受けたということかもしれませんが、倭の五王たちはそんな前例を耳にして、意図して使者を送ったのかもしれません。

そのときの日本には、中国と上下の関係性になったとしても手に入れたいものがあったのです。
そのために彼らは、中国との冊封を求めて海を渡ったのだと思います。

まとめ

冊封の是非は置いておいて。
航海技術が未熟だとしても、どうにかして手に入れたい文明が、大陸に、中国にあったのです。
さすがは世界四大文明のひとつです。
その文化を吸収するために、卑弥呼や倭の五王たちは、まさに命がけで使者を派遣しました。

また、中国皇帝から「〇〇王」のお墨付きをいただくことも目的のひとつだったのでしょう。
中国皇帝から授かる称号と印章は、朝鮮半島への影響力をより大きくしたい倭国にとって、水戸黄門の印籠のように決定的に強い力があったのかもしれません。
また、同じく中国と冊封体制にある朝鮮半島の国々との関係性も、同じ冊封仲間ということで円滑になったかもしれません。

人類の歴史の中では「なぜそんな行動を?」と疑問に思うような出来事が多々あります。
それでもその行動は、人類の歴史の中で「必然」の出来事であったと思うのです。
もし、卑弥呼や倭の五王たちが、時代を下って遣唐使や天正遣欧少年使節たちをはじめ過去の日本人が、中国や世界の文化を吸収しようと海を渡らなかったら、いまの日本はなかったかもしれません。

野口
そう考えると、教科書に出てくるたった数行の出来事も「ありがたいなぁ」と感謝したくなりませんか?

研究者でもない私が時代考察をしてみようと思ったのは、想像する楽しみを少しでも伝えたかったから。
歴史はまだまだ解明されていない分からないことだらけ。
それでも、正しいか正しくないかではなく、いろんな「可能性」があるから歴史は面白い! そう思います。
そんな歴史の可能性を考えるときに役立つのが、想像力です。

今回、この想像力を手助けしてくれたのは、大河ドラマにもなった、陳 舜臣の『琉球の風』です。
この歴史小説の舞台は、戦国時代から江戸時代初めの琉球王国。
中国(明〜清)と冊封関係にあり、薩摩藩の島津家には武力で制圧された琉球王国の、揺れ動く外交や人々の物語です。
この本では、冊封の役割と、冊封使に関する一連の行事の流れが丁寧に描かれています。
中国の行った冊封のことだけでなく、琉球王国を知るためにもぜひ読んで欲しい1冊です。

レジェンド歴史時代小説 琉球の風 上 (講談社文庫)
陳 舜臣
講談社 (2016-03-15)
売り上げランキング: 499,851
レジェンド歴史時代小説 琉球の風 下 (講談社文庫)
陳 舜臣
講談社 (2016-03-15)
売り上げランキング: 584,289

この記事を書いた人

お城カタリスト