船場蔵南石垣の解体修理に関する「現地説明会」に行ってきました。
お目当ては「折廻り櫓」の特別公開でしたが、運よく石垣修理の現地説明会にも参加できました。
今回は、石垣解体の現地説明会の様子をご紹介します。
石垣解体の現地説明会
保存修理工事をしている現場は、姫路城東側の内堀に面した「船場蔵南石垣」です。
江戸時代、この場所には「船場蔵」という建物がありました。その南側の石垣ということで、便宜上、現代になって船場蔵南石垣と名前がつけられています。
この石垣は、池田家時代の江戸時代初期からあるもので、絵図によると石垣の上には土塀が描かれていたそうです。
この内堀は、姫路城の大手側(三の丸広場方面)と搦手(美術館方面)を分断する仕切りの堀として機能していました。
こちらは、現地説明会前に行われていた、保存修理工事の作業風景。
姫路城ではできるだけ石垣を解体せずに、修理や整備をするように努めているそうです。
姫路市立城郭研究室では、石垣の石ひとつひとつにナンバリングをして管理しています。
石に貼り付けてあるシールがその管理番号のようです。
それぞれの石垣が安定しているかを確認し、「積石(つみいし)」の間に、隙間を埋める「間詰石(まづめいし)」を補充する修理工事を行います。
今回、現地説明会で特に説明された現場は、この三角形に土の地肌が出ているエリアでした。
城郭研究室の多田さんが丁寧に説明してくださいました。ありがとうございます!
この部分に樹木が育ち、その根の影響で石垣が膨らんでしまったため、石垣を解体し、木の根を取り出して、石垣を積み直す計画なのだそう。
ちなみに「石垣が膨らむこと」を、妊婦のお腹が膨らむのに例えて「石垣が孕む(はらむ)」と言います。
左側の切り株が、石垣から生えていた樹木です。樹齢は30〜40年ほど。
この木が、右側の石垣の石(凝灰岩)を包み込むようにして育っていたのだそう!
木の根が巻きついていた石垣には、石を割るための「矢穴」がたくさんありました。
この矢穴からどのように石を割ったかが想定できるそうですが、なぜこれほど数カ所も矢穴があるのか調査員の間でも不思議だったと言います。
「何百年後かの調査員が議論するために、こんなトリックを仕掛けたのではないか?」なーんて話もされていて……面白いですね。
工事をされている中村石材工業さんが、木の根と石を吊り上げて重さを測ってくれました。
根は切り落としてありますが、木の重さは693.5kg。凝灰岩の石の重さは601.5kg。
根っこが巻きついていたから、取り出すときには1,300kgもの重さだったなんて驚きです!
植物が育つのは仕方がないことです。けれど、その環境の中で修理をしながら保存をする、大変さと大切さを改めて感じました。
こちらは、石垣を解体した現場を上から眺めた様子です。
石垣は、土の壁と積石の間に、「裏込石(うらごめいし)」と呼ばれる、手のひら大の大きさの「栗石(ぐりいし)」をぎっしりと詰め込んでつくられます。そのような構造をしているのは、栗石によって石垣が安定したり、排水性が高まるといった理由からです。
姫路城の通常のエリアの栗石の層は、平均的に50cm〜1mほどの厚みがあるそうですが、このエリアの石垣は、通常の石垣よりも薄い構造だということが解体で発見されました。
特に、石垣上部は30cmほどと薄くてデコボコしているのだそう。
どうして厚さが違うのか理由は判明していませんが、ほかのエリアの石垣で使われている凝灰岩だけではなく、姫路城では珍しい花崗岩が使われていることも理由の1つではないかと推測しているようです。
こちらが、解体部分から取り出した栗石。
姫路城では河原の石を利用しているのでしょうか。角が丸い石が使われています。
姫路城は、城主の入れ替わりや時代の流れによって、様々な石垣がつくられました。
それは外側だけでなく、内側の見えないところも同じように多様性があるということ。
今回は解体したからこその発見でしたが、まだまだ未知の秘密もたくさんありそうです。
お城って、なんて魅力的なんでしょう。
折廻り櫓の見学と現地説明会を体験して、時代を超えて保存や修理を重ねてきたからこそ、いまの私たちが美しい姫路城を見ることができるのだと、痛感しました。
本当に、ありがたいですね。
では、また!