お城というと、あなたはどんなお城をイメージしますか?
まず思い浮かぶのは、広い水堀に囲まれて石垣の上にそびえる「天守」ではないでしょうか?
そうイメージしやすいのですが、必ずしもお城に天守がある必要はありません。
「城」という文字の成り立ちから考えると、「城」は「土」と「成」という文字からできているように、土で形作られたもの・土が盛られてできた構造物が「城」という意味だと考えられます。
つまり「お城=天守」とは言い切れないのです。
お城を想像したときにイメージするような天守が登場するのは、お城の歴史の中ではごく最近のこと。
お城のカタチがイメージと重なるまでの歴史を知ることで「お城とは何か?」の謎を解き明かすことができます。
お城の歴史は、お城めぐりをする上で知っておくと役に立つ情報です。歴史を知るともっともっとお城を知りたくなりますよ!
環濠集落(かんごうしゅうらく)
「お城のはじまり」は、いつでしょうか?
織田信長が安土城を築いたとき?
武士の棟梁の源頼朝が鎌倉幕府を開いたころ?
いえいえ。
お城のはじまりは、弥生時代の「環濠集落」にさかのぼります。
お城とは、敵から身を守るために住居の周りに堀や柵などをめぐらしたものです。
自分の土地のまわりに濠(ほり)をめぐらせた「環濠集落」が、お城の先祖です。
環濠集落は、今から約2000年前の弥生時代中期から後期に数多くつくられました。
佐賀県の吉野ヶ里遺跡が代表例です。吉野ヶ里では環濠集落の様子がわかるよう大規模に再現されていますよ。
え! 遺跡がお城なの?!
敵の侵入を防ぐための施設ですから「お城の定義」に該当するので、環濠集落も「お城」ですね。
でも、どうしてこの時代に「お城」がつくられたんだろう??
環濠集落の構造
環濠集落の構造をご説明しましょう。
まず、自分たちの土地を守るため土地の周囲に「濠(ほり)」を掘ります。
この濠を「環濠」といいます。
ちなみに「濠」は「堀(ほり)」や「壕(ほり)」と同義語です。
「濠」と「壕」の違いは、それぞれの文字の「へん」が示すように、前者が水の入った堀(水堀)で、後者が水のない堀(空堀)と、意味合いが微妙に異なります。
話を元に戻しましょう。
濠を掘ることで土が出ます。
その土を濠のそばに山のように積み上げると、土製の塀のような働きの「土塁」ができます。
この土塁によってお城の内側と外側を仕切って守るのです。
「土へん」に「成る」という「城」の文字の成り立ちから考えても、環濠集落は立派な「お城」です。
身近な「環濠集落」を探してみよう
弥生時代が、お城のはじまりとは驚きです!
身近な場所に、お城のはじまりの環濠集落はないか探してみることにしましょう。
私の住む大阪府には、和泉市から泉大津市にかけて「池上曽根遺跡」という弥生時代中期の遺跡がありました。
この池上曽根遺跡。
明治時代に、地元の中学生が石の鏃(やじり)を発見したことから研究がはじまりました。
昭和になって繰り返された発掘調査によって、祭祀に使ったと思われる約80畳の広さの大型建物や、クスノキの大木をくりぬいた直径2mを超える井戸も発見されました。
池上曽根史跡公園では、これらをはじめとする建物がいくつも復元されています。
ここは、全周約1km・直径約330mのいびつな円形の環濠に囲まれていたそうで、公園の一角には環濠の一部が再現されています。
この環濠が、池上曽根遺跡が「城」であった証拠です。
環濠集落に行ったなら、復元された建物群だけでなく、環濠のつくりにも注目してみましょう。
まとめ
お城のはじまりは、弥生時代の環濠集落です。
耕作地の水の権利をめぐるムラ同士の争いから、自分たちの土地と財産を守るため、「環濠」でムラを取り囲み防御していました。
吉野ヶ里遺跡では、内側だけでなくその外側にも環濠をめぐらせて、二重の環濠で集落を守ります。
最盛期には、2.5kmにもおよぶ距離の大環濠を整備したそうです。
限られた道具しかないこの時代、想像をはるかに超える大変な工事だったことでしょう。
それでも、守りたいものが、守りたい暮らしがあったのです。
そのために環濠のしくみが必要不可欠だったのでしょう。
環濠集落は、土地と財産と人々の暮らしを守るための軍事施設でした。
あなたも、身近な場所に残る環濠集落を探してみませんか?
では、また!