【本の紹介】額田女王|井上 靖

こちらでは、井上 靖氏の『額田女王(ぬかたのおおきみ)』(新潮文庫)をご紹介しています。

野口
本から学んだことや感じたことを、徒然なるままに書いています。

この本を初めて読んだのは高校生のころ。
ふたりの英雄に愛された女性の話だなんて、なんともロマンティックじゃありませんか!
通学の電車の中で、うっとりしながら読んだ甘い記憶がよみがえります。

今回は、古代のお城と時代をもっと理解したい思って『額田女王』を読み返しました。
歴史小説は、イメージしにくい時代を想像力で補ってくれる強い味方です。

古代山城のひとつ 大野城(福岡県)

飛鳥時代につくられたお城に、「古代山城(こだいさんじょう)」があります。
古代山城は「白村江の戦い(はくすきのえ・はくそんこうのたたかい)」に敗れた大和朝廷が、唐や新羅の反撃に備えて、旧百済の亡命者たちの技術力と協力で築いたお城です。

古代山城を考えるときに、避けて通れないのが白村江の戦いです。
この戦いがなかったら、この戦いに負けなかったら、古代山城はつくられなかったかもしれない。

そう考えると、なぜこの時代に、大帝国の唐を相手に戦ったのかが、疑問でした。
その疑問を解決するヒントになればと思って、読み返してみたのです。

主人公は、大化の改新で活躍した「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」と、その弟である「大海人皇子(おおあまのみこ)」に寵愛された、万葉歌人の「額田王(ぬかたのおおきみ)」です。

中大兄皇子は、のちの第38代 天智天皇。
大海人皇子は、のちの第40代 天武天皇。
白村江の戦い前後のこの頃は、中大兄皇子が政治の中心を担っていた時代でした。

先に額田王を見そめたのは大海人皇子で、のちにふたりの間には十市皇女(とおちのひめみこ)が生まれます。

作者の井上氏は、額田王が巫女的役割だったという説に焦点を当てて人物像を創り上げました。
そのため、大海人皇子や中大兄皇子の妻でも、十市皇女の母でもない、人間を超越した神に仕える神聖な女性として、額田は描かれています。
そのため歴史小説でありながら、ファンタジー要素もあって面白い。

再現された屋嶋城(香川県) ボランティアガイドのおじさまと(2016/9/11)

この時代、地方の有力豪族たちは朝廷との関係を深めるため、自分の娘を天皇や皇子たちに嫁がせたことが、この本から分かります。
また、地方豪族たちだけでなく、皇族同士や皇族と家臣との間でも娘を嫁がせました。

興味深いのは、娘を一人ではなく、姉妹で同じ男性に嫁がせる当時の習わし。
中大兄皇子の娘ふたりも、大海人皇子のもとに嫁いでいます。
それが大田皇女(おおたのひめみこ)と、のちの第41代 持統天皇になる鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)です。

中大兄皇子は愛娘をふたりも嫁がせるほど、大海人皇子を大事な右腕と考えていたと思われます。
大海人皇子は、中大兄皇子の息子:大友皇子(おおとものみこ)に、額田王との間に生まれたわが娘:十市皇女を嫁がせています。

天智天皇の死後に起こった「壬申の乱」は、天智天皇の後継者に関する心変わりが原因とされ、政策に不満を持つ地方豪族たちが大海人皇子側に加勢したと教科書では記載されていました。

けれど、娘を嫁がせて関係性を深めていた当時の慣習を考えると、意図的だった可能性もありますが、ふたりの兄弟のつながりは深かったのではと想像できます。

それなのになぜ、後継者争いの壬申の乱に発展したのか……新たな疑問が生まれました。

作品には人間関係だけでなく、遣唐使のことや、有間皇子の謀反のこと、阿部比羅夫(あべのひらふ)の蝦夷討伐の話や、朝鮮半島の国々との関係性、そして白村江の戦いに至る百済救済戦争の概要や築かれた古代山城など歴史についても詳しく触れられます。

この本を読むとき、岩波書店の『日本古典文学大系』の「日本書紀」を図書館で借りて、対比しながら読んでいました。
日本書紀に書かれていることが、同じ流れでもちろんこの作品にも描かれています。
日本書紀では少ない文字数や数行で描かれた出来事が、作者の丁寧で奥深い描写のおかげで、まさに行間を埋めて、色鮮やかに再現されていてわかりやすい。

野口
ちなみに「日本書紀なんて私には読めない!」と思っていましたが、想像以上に読みやすくて面白いので自分用に購入しました。

作品の中で描かれる古代山城の様子をご紹介しましょう。

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筑紫に大きな水城(みずき)を築いた。大きな堤を造って内部の濠(ほり)に水を入れた。そこで敵兵を阻止するための施設であった。堤は延々と何町にも及んだ。また筑紫の海浜地帯の要処要処には城を築き、土塁や石垣を積んだ。
また対馬、壱岐の二つの島に烽台(のろしだい)を築き、辺境防衛の専門の兵として防人(さきもり)を置くことにした。烽台を築き、防人を置いたのは、半島に近いこの二つの島だけのことでなく、筑紫にも同じような措置をとった。そしてこの烽台と防人の制度は、次第にこの国の長い海岸線全域へと押しひろめられて行く筈であった。

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大宰府(福岡県)正殿跡

筑紫、つまり北九州地方には、大和朝廷の地方行政機関「大宰府」がありました。
大宰府は、中国や朝鮮半島の国々と接する最前線の重要な拠点です。
その大宰府を守るために優先的に水城などを築き、大陸や朝鮮の動向が瞬時にわかるよう、対馬と壱岐に古代山城を築いたことがわかります。

そして北九州エリアから近畿地方にかけての瀬戸内海沿岸に、次々に古代山城を築く計画を立て、もし唐や新羅が攻めてきたとなれば、狼煙台から狼煙を上げて、狼煙リレーで大和まで緊急事態を伝達しようと考えたのでしょう。

熟田津に

船乗りせむと

月待てば

潮もかなひぬ

今は榜ぎ出でな

伊予の熟田津(にぎたつ)から百済救済戦争の拠点の筑紫に向けて出航する夜に、額田王が詠んだ有名な歌。
作者の繊細な描写によって、より際立つ歌の力強さ。ああ、しびれたー!
文中に挿入される和歌の調べも美しく、そして悲しく、うっとりします。

なぜ大国の唐を相手に戦ったのか? その答えはまだ見つかりません。
そして、古代最大の内乱「壬申の乱」がなぜ起きたのか? と新しい疑問も生まれました。
まだまだ古代史の謎の探求は続きそうです。

(2019年10月29日 再読)

井上 靖|額田女王(新潮文庫)

天智と天武、ふたりの天皇に寵愛され『万葉集』の代表的歌人である額田王が主人公の物語。大化の改新以降の激動の時代を額田王のロマンスを通して知ることができる1冊です。可憐な額田王を描く、井上 靖氏の美しい文章にもしびれます。学生時代に読んだあなたも、もう一度読んでみませんか? 新しい魅力に出会えるはずです。
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日本書紀(上下巻)|日本古典文学大系[新装版](岩波文庫)

信ぴょう性の有無はさて置き、日本の古代史を知るために一度は読みたい本。想像以上に読みやすく、細かな文字ながら注釈もついているので便利です。巻第1神代上から巻第15清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇までを収録した上巻と、巻第16武烈天皇から巻第30持統天皇までを収録した下巻があります。
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黒岩重吾|茜に燃ゆ〜小説 額田王〜(中公文庫)

井上靖の「額田女王」の対比として、ほかの作家が同じ時代をどう描いているかを知りたくて読んだ本。皇極天皇が蘇我入鹿と熱烈な恋をしていたという視点は面白いのだけど、卑猥な描写が多くて残念だった。黒岩重吾の作品は古代が舞台のものが多いので、学びの参考に読んでみたいとも思うのだけど……。
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この記事を書いた人

お城カタリスト