築城の名手 藤堂高虎の武将としての生き方と城づくり

津城(三重県)の高虎像
津城(三重県)の高虎像
野口

お城カタリストの野口です。

「築城の名手」と聞いてあなたが思い浮かべる人物は誰ですか?

私の場合は、やはりこのお方「藤堂高虎(とうどうたかとら)」です!

有子山城・大和郡山城・粉河城赤木城宇和島城大洲城・膳所城・今治城甘崎城・伏見城・江戸城・津城伊賀上野城・篠山城・丹波亀山城・和歌山城・二条城・徳川期大坂城・淀城

これは高虎が築城したり、関わったとされるお城の一部です。

高虎自身のお城は、太字のもの。それ以外は、主君のお城です。

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には朝鮮半島に「順天倭城(じゅんてんわじょう)」を築いていますし、秀吉の大豪邸「聚楽第(じゅらくてい)」の基本プランづくり(縄張り)をしたとも伝わります。

実は高虎が関わっているかもと言われるお城は、まだまだたくさんあるのです。

私は、高虎の生き方が大好きです。

なぜなら、自分の能力と可能性を信じて、その力を最大限に発揮できるよう精進し続けた「努力の人」だからです。

群雄割拠の戦国時代。

武勇の誉れ高い武将を目指すのが、この時代では普通の、当然の出世コースでしょう。

そんな時代に高虎は、なぜ築城技術を身につけたのだろう?

それが私が高虎に興味を持ったはじまりでした。

野口

高虎の生涯を振り返って、その謎に迫ってみましょ

藤堂高虎の生涯

高虎は、近江国犬上郡藤堂村、現在の滋賀県犬上郡甲良町在士の土豪・藤堂虎高の次男として生まれます。

幼名は「与吉」。兄の高則が戦死したことで、藤堂家の跡取りとなりました。

成長した高虎は、身長6尺2寸(約190cm)という恵まれた体格のたくましい武者になります。

当時の男性の平均身長は157cmほどだった時代です。なんと大柄な!

さらに体重は30貫(約110kg)の大男だったと言われています。

高虎 兜
伊賀上野城に展示されている高虎の兜

こちらは、秀吉から賜ったとされる黒漆塗唐冠形兜(くろうるしぬりとうかんなりかぶと)

高虎が初代藩主だった、伊賀上野城(三重県伊賀市)の天守内に展示されています。

広げた両手ほどに大きな兜は、大柄の高虎によく映えて、お似合いだったことでしょう。

高虎は、浅井長政・阿閉貞征・磯野員昌・織田信澄・羽柴秀長・豊臣秀吉・徳川家康と、7人の主君に仕え、75歳の生涯を駆け抜けました。

青年期

出生地の甲良町(滋賀県)にある高虎像

若かりし頃の高虎は、低迷していた藤堂家再興のために、野心に溢れた若武者だったようです。

世間知らずと言えばそれまでですが、自分の能力を信じてもっと上にもっと上にと、並外れた向上心を発揮したのだと私は思います。

そんな向上心が空回りしたのか、仲間と喧嘩して相手を切りつけたり、自身の能力を正しく評価できない上司の元から逃げ出したりと、自由奔放な生き方を見せてくれます。

高虎の転機

大和郡山城
大和郡山城の追手向櫓

そんな高虎の人生を劇的に変えるエポックメイキングは、豊臣秀吉の弟・秀長に仕えたことでしょう。

武士であるなら、武将であるならば、まずは戦で強くなければならない。

そのために一番槍を目指してハチャメチャに駆け回っていた高虎にとって、さほど武功に長けていないにもかかわらず、上からも下からも信頼され必要とされる秀長の存在は、とても不思議な存在に映ったのではないでしょうか。

秀長に接するうちに、武将としてのチカラとは「武勇」だけでなく、特出する何かを持つことだと実感した日々だったかもしれません。

秀長のもとで学んだ高虎は、城を築く「技術」というチカラを知るようになります。

高虎の生涯を描いた火坂雅志氏の『虎の城』によると、安土城築城の際にも高虎は秀長に伴って作業に関わったと書かれています。物語とはいえ、高虎が安土城にいたのかと想像するだけで胸が熱くなりました。

進歩的な城づくり

近世城郭の城づくりの原点を目の当たりにした高虎は、その後の築城技術に大革命を与える存在になって行きます。

1. 層塔型天守の先駆け

その当時主流だった天守は「望楼型」と呼ばれるタイプの天守です。

望楼型天守は、築城する土地の形や広さに左右されずに建てられるメリットがありますが、建増しした建物のように構造が複雑で、統一したつくりではありません。

そのため、適した木材の調達に時間がかかり、作業も煩雑になるというデメリットがありました。

それを柱の長さを規格化することで、木材の調達も作業もしやすく、工期を短縮できる新しい構造をつくり出します。

それが「層塔型天守」です。

史上初の層塔型天守は、高虎自身の城である今治城の天守だと伝わります。

2. 革新的な石垣技術

大阪城
高虎が築いた大阪城の石垣

石垣を築くとき注意しなければならないのは、崩れやすい石垣の角の部分=隅石(すみいし)の補強です。

隅石部分を補強する「算木積み(さんぎづみ)」構造は、徐々に進化して江戸時代のはじめに完成したと言われています。

強い石垣がつくれる算木積みが一般化することで、より高い石垣を築くことが可能になりました。

さらに高虎はその構造に改良を加え、独自の直線的な石垣を確立します。

高虎の考案した石垣構造によって、より積みやすく、より強固なつくりの石垣が誕生したのです。

関ヶ原の戦い前後

関ヶ原の戦いの前に、高虎は、豊臣方から徳川サイドへ主君を替えています。

この側面だけを目にすると、なんて薄情で世渡り上手な人だと思うかもしれませんが、高虎は「この方が主君だ!」と決めたら一心に働いた忠義の方だったのです。

単なる世渡り上手では、天下人の秀吉や家康にまで信頼されるのは難しかったことでしょう。

江戸時代の高虎の活躍

今治城
今治城と高虎の銅像

高虎の、ニュータイプの層塔型天守と革新的な石垣技術。

これらの技術に支えられて実現したのが、徳川幕府の「天下普請(てんかぶしん)」の城づくりでしょう。

天下普請とは、徳川幕府が全国の大名たちに命令して行わせた土木工事のこと。

各大名には担当する工事エリア(丁場)が幕府より割り振られ、分担して工事を行います。

つまり、強固な徳川幕府のお城を、家臣である大名たちに手伝わせてつくらせるのです。

この天下普請の大工事が、幕藩体制の確立と統治体制の強化に一役買ったのは間違いありません。

戦上手の高虎だからこそ、城のどこを守り、どこを強化するべきか、どこが盲点になるかを知り尽くしていたのでしょう。

そのため、共同作業の天下普請で工事がしやすくてシンプルなつくりながらも強固な守りの、天下普請に適した城が完成したのです。

高虎の最期

高虎が75歳で亡くなったとき、高虎の亡骸を清めた者の見聞として伝わるものがあります。

ご遺骸には、すきまもないほどの傷があった。

弾傷、槍傷などがあちこちにあり、右手の薬指と小指は切れて爪がなく、左手の中指も一寸ほど短くなっている。

右足の親指も爪がなく、たいへんなご苦労を重ねてこられたのであろうと察せられた。

高虎の最期は、まさに満身創痍の姿でした。

高虎は、戦いで力を発揮するだけでなく、築城技術も身につけて築城の名手と呼ばれるまでになるほどの努力の人でした。

高虎の生き方を顧みると、現在の私たちの仕事術や処世術にも通じるヒントがあると思うのです。

まとめ

何か一つではなく、何かを掛け合わせることによってオリジナルはつくられます。

高虎は、戦の武勇だけを極めるのではなく、さらに築城技術を学び取り、自分のものにすることで、幕末まで続く藤堂家の礎を築くことができました。

野口

自身が体現したことを次世代に伝えることこそが、先人たるべき人の道なのではないでしょうか。

藤の花

そんな知恵をさずけてくれる高虎ゆかりの「藤まつり」が、生誕地の滋賀県甲良町で行われています。

今なお愛され続ける高虎の息吹に、会いに行ってみてはいかがでしょう。

毎年5月5日、在士八幡神社にお越しください。

高虎さまの魅力を、まだまだ伝え切れてません。

また別の記事で愛しい高虎さまの叡智をたっぷりご紹介したいと思います!

では、また!

この記事を書いた人

お城カタリスト