古墳時代|なぜ古墳がつくられたのか?

大仙陵古墳:Copyright © 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省, Attribution, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=278362による

古墳時代は、古墳が盛んにつくられた3世紀後半から7世紀の時代をさします。
古墳時代のはじまりは弥生時代と重なり、終わりは次の飛鳥時代と重なります。
このころの時代は、くっきり分けずにフェードイン・フェードアウトするようなイメージで区分されています。
文化の違いで時代を区別しているからかもしれません。

「古墳」とは、土を盛り上げてつくった丘状の墓のことで、指導者やリーダー・その一族たちが葬られました。
メジャーな古墳のかたちといえば、上の写真のような鍵穴形の「前方後円墳」でしょう。
そのほか、四角形の「方墳」、円形の「円墳」、ふたつの四角形をつなぎ合わせたような「前方後方墳」、文字通り古墳の四隅が流れ出たような形の「四隅突出墳」など、古墳にはさまざまな種類があります。

弥生時代には、いくつもの「ムラ」が「環濠集落」をつくって生活していました。
そのムラがまとまり、融合されて小さな「クニ」が生まれ、大きなクニに発展していく時代が古墳時代でした。

疑問:なぜ古墳がつくられるようになったのか?

弥生時代の後期から、徐々に環濠集落の数は減少しはじめ、小規模な古墳がつくられはじめたようです。
その後の古墳時代には、より大規模な古墳が各地につくられるようになります。

なぜこの時代、環濠集落は減少し、古墳があちこちでつくられるようになったのでしょうか?

野口
今回はこの点について、独自の目線で時代考察をしたいと思います。

弥生時代にあって、古墳時代にないもの。
弥生時代になくて、古墳時代にあるもの。
弥生時代にも、古墳時代にもあるもの。
それらを考察してみたら、疑問を解決する何かヒントが見つかるかもしれません。
弥生時代と古墳時代とで、何かどう変化したかを比べてみたいと思います。

独断と偏見の時代考察です。あらかじめご了承ください。

弥生時代を考察する

弥生時代と言えば、弥生式土器と水田稲作の伝来でしょう。
特に水田稲作の伝来は、人々の生活を劇的に変えるエポックメイキングな出来事でした。

この時代、たくさんの米が収穫できるよう、豊かな土地と水を確保する必要がありました。
また、米などの収穫物は蓄えられ「財産」になりました。

大阪府立弥生文化博物館/環濠集落の模型

そして登場するのが「環濠集落」です。

弥生時代は、稲作によって安定した暮らしがもたらされた反面、人々が利権のために傷つけ合う争いの時代でもありました。
このような争いからムラと収穫物である財産を守るために生まれた環濠集落が、城のはじまりと言われています。
環濠という、集落の周りにめぐらせた濠(ほり・壕や堀も同義語です)で人々の住まいや水田を囲い、外敵の侵入を防いだのです。

財産である米を多く持つ者がムラのリーダー、つまり権力者だったと考えられます。
またリーダーには、豊かな土地と水を確保して、人々に安全を担保することも求められたことでしょう。

弥生時代は、権力者の資質と力を示すものが環濠集落だったと考えられます。

古墳時代を考察する

そんな環濠集落は、弥生時代の後期から段々と消えていきます。
この理由を解明できたら、疑問の解決に役立つのではないかと考えました。

古墳時代、土地が豊かで米の収穫量が多いことは、ムラの機能とリーダーの資質として大前提の条件だったかもしれません。
その上で、どれだけ広く豊かな土地を持っているか、どれだけ多くの人々にリーダーとして認められているかが、権力者として重要になっていったのではないでしょうか?

環濠集落という、環濠で囲まれた限られた空間だけにとどまっているには、限界の時期がきたのかもしれません。
そのため環濠集落が徐々に減少し、ムラが統合されクニに展開していったと考えられます。

七観山古墳(大阪府堺市)

では、古墳という超大型の構造物をつくったのはなぜなのでしょう?

巨大な古墳を好きな場所につくれるということは、土地を自由にできる力があるということです。
大規模な工事ができるということは、多くの人を集めるだけの力と資金があるということです。
大々的に埋葬するのは、そのリーダーを崇め神格化する目的があったのかもしれません。

古墳をつくることで、リーダーたちは自己の力をアピールしていたと考えられます。
つまり、古墳はリーダーたちの権力のシンボルだったのです。

私の結論:権力の価値観が変化したから

「なぜ古墳がつくられるようになったか?」の答え「権力の価値観が変化したから」だと、私は考えます。

権力の価値観というと、分かりにくいかもしれませんね。
つまり「リーダーたちの権力を表現する方法が変化したから」です。

財産と人民を守るための環濠集落という限定したエリアでは、古墳時代にはリーダーの力が発揮できなかった。
もっと広いエリアで、もっと大人数の人々のリーダーになるためには、環濠集落では限界があり、古墳をつくることで権力をアピールし、権力の象徴として活用していった。そう思います。

野口
土地と財産を守るための環濠集落から、権力をアピールする古墳に移行する様子は、まるで中世の山城から近世の天守をもつ城に変化する流れに似ていて、とても面白いと思いました。

まとめ

そのリーダーの力=権力を表現するものが、環濠集落から古墳に変化しました。
そのため古墳時代に、数多くの大型の古墳がつくられたのです。

弥生時代にあって、古墳時代にないものは、環濠集落です。
弥生時代になくて、古墳時代にあるものは、古墳です。
弥生時代にも、古墳時代にもあるものは、人々の暮らしと安全を確保するリーダーの力です。
リーダーの権力を表現する形は変化しても、リーダーの守りたいものは変わらなかったのです。

古事記や日本書紀の記述も、正確なものか分からない古墳時代の出来事たち。
分からないからこそ、興味が湧いてなんだかとても面白い!
解明できてないことも、想像力をかき立てる神秘のミステリーのようで、とても魅力的な時代だと思いました。


↑さすが新書! 倭の五王について詳しく説明されています。

独断と偏見の自由な時代考察をお送りしました。あらかじめご了承ください!

この記事を書いた人

お城カタリスト