伊賀上野城の楽しみ方|注目したい見どころ3選

こちらのページでは、伊賀上野城(三重県伊賀市)の見どころを厳選してご紹介しています。

時間がないときでも、この必見ポイントを押さえれば伊賀上野城の魅力を網羅できます。お城を訪問する前にぜひチェックしてくださいね。

伊賀上野城(いがうえのじょう)は、築城の名手・藤堂高虎が大規模改修したお城です。

もともとこの場所には筒井氏のお城がありましたが、徳川家康の命令で大阪攻めの秘密基地として、慶長16年(1611)から大改修をスタートさせました。

このように、新しい場所に一からお城を建てるのではなく、もともとあったお城をリノベーションして活用することはよくあります。

それは、お城のある場所が地理的に有利なポイントだからという理由と、もとのお城を利用することで、できるだけ早く完成させたいという意図があるからです。

特に伊賀上野城は、徳川家と豊臣家の最終決戦に向けて重要な拠点の一つであり、また、万が一に備えて家康が避難するお城でしたので、急ピッチでつくる必要がありました。

そんな時代背景も心に留めて、伊賀上野城に行ってみましょう。

見どころ1・大阪城に次ぐ、全国2位の高石垣

城子さん

きゃー高いっ! 足がすくむ!

この高石垣は、伊賀上野城の西側にあります。

高虎の石垣の集大成とも言える見事なつくりの高石垣で、その高さは29.7m!

大阪城の石垣とともに、日本で最も高い石垣の一つと言われています。

どうしてこんなにも高い石垣が、お城のこの場所にあるのでしょうか?

写真は、天守最上階から西の方向を眺めたものです。

正面に見えるのは、県立上野高校の第2グラウンドです。

石垣を築いた当時、この景色のずっとずっと先にあるのは、豊臣秀頼のいる大阪城でした。

大阪城の方角である西側に高石垣を築くことで、このお城最大の防衛ポイントにしたのです。

伊賀上野城

伊賀上野城に行ったなら、ぜひ上野高校の第2グラウンド側からの高石垣をご覧ください。

慶長16年(1611)から始まった大改修では、西側の工事が最優先でした。

慶長19年〜元和元年(1614〜1615)の大坂の陣で徳川家が勝ったことで、改修工事はそこで中断されて、お城は未完成のまま終わります。

お城の東側エリアを見てみると、土でできた空堀が木々に隠れてあるだけです。

伊賀上野城に行ったらぜひ、西側と東側のつくりの違いを確認してくださいね。

見どころ2・実物! 藤堂高虎の兜

高虎 兜
伊賀上野城に展示されている高虎の兜

インパクト大のこちらの兜は、高虎が豊臣秀吉からご褒美で頂いたという「黒漆塗唐冠形兜(くろうるしぬりとうかんなりかぶと)」。

あら? 家康の命令でお城をつくった人が、どうして秀吉にご褒美の兜をもらっているのでしょうか?

高虎は、7人の主君に仕えたと言われて、家康だけでなく秀吉にも仕えていました。

関ヶ原の戦いの前に、豊臣方から徳川方へ主君を替えています。

この側面だけを目にすると、なんて薄情で世渡り上手な人と思うかもしれませんね。

けれど高虎は、この方が主君だ! と決めたら一心に働く忠義の方なのです。

戦いで力を発揮するだけでなく、築城技術も身につけて築城の名手と呼ばれるほどの努力家でした。

単なる世渡り上手だけでは、天下人の秀吉や家康にまで信頼される存在になるのは難しかったでしょう。

その証拠に、ついには外様ながら32万石の大名になります。

32万石というと、徳川御三家を含めた271の大名家の中で上位12位の石高です(慶応年間)。

まさに大大名ですね。

当時の男性の平均身長が、私の身長と同じ157cmほどだった時代に、高虎は身長が6尺2寸(約190cm)、さらに体重が30貫(約110kg)の大男だったと言われています。

両手を広げるほど大きな兜は、大男の高虎にお似合いだったことでしょう。

津城(三重県津市)の高虎の銅像から、装着した図をイメージしてくださいね。

伊賀上野城では、その兜の実物をすぐ目の前で観ることができます。

持ち主を知って観てみると、展示品ひとつでも魅力が増すと思いませんか?

見どころ3・地元の名士が私財で建てた天守

川崎 克氏(Wikipediaより)

お城の大改修に伴い、高虎は5重の大天守を建設しますが、完成目前の慶長17年(1612)に襲った暴風雨で残念なことに天守は倒壊してしまいます。

天守倒壊のそのあとは、大坂の陣が起こり徳川方が勝ったことと、江戸幕府の方針で天守の建設が禁止されたことから、天守は再建されないまま昭和の時代を迎えました。

天守台だけが残るお城に、現在の天守が建てられたのは昭和10年のこと。

正式名称を「伊賀文化産業城」と言います。

この天守はなんと、地元出身の衆議院議員・川崎 克氏が私財を投じて再建したものです。

この天守は当時では珍しく、木造で再建されています。

川崎氏は「耐震耐火の近代建築を要求して居る時代に、古代の桃山形式の建築を復興するのは、極めて物好きの感があるが、日本建築の美を賞美することが意義深い」と話したと伝わります。

木造にこだわって建てられた天守は、必見です。

地元愛と日本文化を賞賛する心が、川崎氏に天守復興の夢を描かせたのでしょうか。

川崎氏のおかげで、桜や紅葉など四季の美しさを天守と一緒に楽しむことができるのです。

伊賀上野城

高虎の天守は5重でしたが、再建された伊賀文化産業城は3重3階のつくりです。

天守台の上に建物を建てる場合は、天守台の石垣いっぱいに建物を建てるのが普通です。

けれどこの天守台は、高虎の5重の天守に合わせて造られているので、それより小さい3重の復興天守では敷地に空きスペースができてしまいます。

そのため、天守台の石垣の端には白塀を建て、ひと回り内側に建てられていますので、訪問した際にはぜひチェックしてください。

このように天守台よりも小さい天守が建てられたお城は、会津若松城や浜松城などいくつもあります。

天守台と天守の大きさが合わない時は「再建された天守なのかも?」と想像してみましょう。

まとめ

伊賀上野城の必見ポイント

  • 大阪城に次ぐ、全国2位の高石垣
  • 実物! 藤堂高虎の兜
  • 地元の名士が私財で建てた天守

こちらの3つのポイントに注目して、伊賀上野城を歩いてみましょう。
お城を建てた人の思いや時代背景を、深く知ることができますよ。

では、また!

この記事を書いた人

お城カタリスト