かつて日本には、大小さまざまな4万から5万の数のお城があったと言われています。
その中で、江戸時代から現在まで残った現存天守のあるお城は、12城あります。
桜の名所で有名な弘前城や、現存天守で一番古いと言われる犬山城、世界遺産の姫路城など、美しい大型の木造建築が今に受け継がれています。
昭和20年代まで、現存する天守は20城ありました。
昭和20年のアメリカ軍の空襲によって岡山城をはじめ7城がなくなり、昭和24年には火災で1つの城が失われます。
かつて戦いのための砦であったお城は、時代とともに次々と数を減らしていきました。
そんな時代の流れの中、昭和30年代から40年代にかけては、空前の天守再建ブームが巻き起こります。
減少する天守が再建されるこの社会運動は、どうして起こったのでしょうか。
市民の熱意
明治時代、政府は廃城令を出して過去の遺物であるお城を、たくさん壊しました。
その中で残ったものは、陸軍の軍用地や、役所や学校の土地に利用されます。
例えば、旧制岡山第一中学校は、明治29年に岡山城の本丸につくられました。
学生たちは岡山城の天守のもとで勉学に励み、青春時代を過ごします。
このような出来事は岡山城に限らず、全国のお城で見られた光景です。
天守とともに成長し、思い出を共有した人々がたくさんいました。
そして戦争が起こり、度重なる空襲で町中が焼け野原になります。
思い出の校舎も天守も焼かれ、お城に残されたのは空っぽの天守台の石垣だけでした。
城下町に暮らす人々にとって、お城は町の景色の一部です。
記憶に残るあの景色を取り戻したい……その思いが、一度は失われてしまった天守を蘇らせるという、天守再建の原動力になったのです。
戦後の日本経済の復活
姫路城で、1枚の写真を見ました。
そのモノクロの写真は、一面の焼け野原とその奥に立つ姫路城の姿を写したものです。
焼き尽くされた土地の中に残る姫路城を見て、どれだけの人が勇気づけられたことでしょう。
その情景を想像すると、戦争を知らない私でも感動が胸に込み上げます。
それはまさに、奇跡の光景。
その姫路城の姿は、市民にとって大きな希望の光だったのではないでしょうか。
戦後の日本は、一面の焼け野原を元のような生活の場に戻すよう、懸命な努力をしました。
そして一刻も早く「戦後」から抜け出したいと熱心に働き、自身の住まいだけでなく、工場や職場や街をたった10年で再建したのです。
そして昭和29年には、東京が夏季オリンピックの開催地に立候補します。
一度は落選したものの、昭和39年の第18回夏季オリンピックの開催会場に決まります。このオリンピックの開催は、日本が国際社会の一員に復帰するためのひとつのプロジェクトでした。
開催に向けて交通網の整備や建設ラッシュが続き、オリンピック景気と呼ばれる好景気が日本中を覆いつくしました。
高度成長の波は全国に広がり、戦争で失った天守を再建しようとする動きが活発化します。
まず、昭和31年に岐阜城が、昭和33年には和歌山城と広島城の天守が再建されます。
昭和34年には名古屋城や大垣城が、その翌年には火災で失われた松前城や小田原城の天守がつくられました。
岡山城の天守も昭和41年に再建されて、このブームは昭和40年代の中ごろまで続きます。
それらの天守は、戦後復興のシンボルとして再建されたのです。
東京タワーと天守
10年ほど前に公開された映画、「ALWAYS 三丁目の夕日」を覚えているでしょうか。
時代は昭和30年代、東京の下町を舞台にしたノスタルジックな風景が、その時代を生きていないにもかかわらず、なぜか懐かしく感じられる映画でした。
劇中の「東京タワーだ。完成すれば世界一になる」の言葉に込められた、当時の人々の希望と憧れのパワーはどれほど大きかったことでしょう。
少しずつできあがっていく東京タワーは、戦後から脱出して豊かな日本になったことを象徴するかのようです。
映画で描かれる東京タワーの様子が、天守再建のブームと重なります。
東京では、復興のシンボルは東京タワーだったのでしょう。
そして地方では、地元の顔でもあるお城に、戦後復興の希望を重ね合わせたのではないでしょうか。
天守が徐々にできあがっていく様子は、人々に誇りと勇気を与えたのです。
もしものその先に……
もし戦争がなかったら、空襲がなかったら、もっと多くの天守が各地にそびえ立っていました。
なくしたものと同じものを手にすることはできませんが、今あるものを守り続けることは、私たちにもできることです。
天守をつくり、それを守り続けることは、平和を維持することと同じです。
お城は過去の遺物や名残ではなく、今もなお人々の心のふるさととして存在し続けているのです。
想いのつまった存在として天守をみてみると、その美しさがさらに際立ちます!
では、また!