松本城|天守が現存する2つの理由

松本城

長野県の松本城に行ったことはありますか?
巨大な国宝天守と美しい景色で有名な、松本城。
人気の観光スポットなので、お城好きに限らず行ったことのある方は多いのではないでしょうか。

江戸時代初期に建てられた天守が、時空を超えて今の私たちを喜ばせてくれます。
本物の黒い漆で塗られている天守は、全国でも松本城だけ!
そこから別名「烏城(からすじょう)」とも呼ばれます。
漆黒の松本城と雪の残る北アルプスとのコントラストはとても美しくて、時間を忘れて眺めていたい風景です。

野口

どうして松本城は、この美しい姿のまま残っているのでしょうか?

それは、歴史の転換期に松本城を救った人物がいたからです。
その事実を知って欲しくて、私はこの記事を書いています。

天守を破壊の危機から救った人

国宝 松本城HPより

その人物は、『競売にかけられた天守で万博を開催し、天守を買い戻した人物』として紹介されている、松本下横田町の副戸長をしていた28歳の市川量造(りょうぞう)です。
このことを初めて知ったとき、私は衝撃を受けました。
たった1行の紹介文ですが、この中にどれだけ苦しみ悩んで決断した出来事が詰まっているのかと、彼の行動力と情熱を想像して感動したのです。

その姿は、まるでメロスのようだと思いました。
『メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)の王を除かなければならぬと決意した』ではじまる、「走れメロス」のメロスです。
メロスは感情的な部分もありますが、自分の信念と約束のために走り続けます。
走りながら迷い苦しむメロスの姿が、量造の活動と重なったのです。

明治時代になり、無用の長物となったお城は廃城になる危機に見舞われます。
松本城の天守は、235両(現在の金額で約400万円)で競売にかけられ、壊される運命でした。
それを知った量造も、きっと激怒したことでしょう。
そして自分の信念と熱意を糧に奔走します。
こんなに貴重な建物を壊すべきではないと自身が発行する『信飛新聞』で保護を訴え、落札した人には天守の破却を先延ばしにしてもらうよう猶予を押して頼みました。

市川量造の発想力

Wikipediaより

当時、世界では万国博覧会(万博)があちこちで開催されて、ブームになっていました。
明治6年のウィーン万博では、名古屋城の金のシャチホコが展示されるなど、日本文化が世界に紹介された時代でもあります。
そんな万博の盛況ぶりをヒントにして、資金集めと松本城の価値を人々に知らせることを目的に、博覧会のために松本城を貸して欲しいと県(筑摩県)に請願書を出します。

はじめ人々は、量造の呼びかけを相手にしていませんでした。
若い量造はいろいろな批判を受けて、つらかったことでしょう。
幾度か立ちどまりそうになったことでしょう。
けれど彼は諦めずに走り続けます。
松本城を救うために走るのだ、走らなければならぬと。

そして彼の熱意が仲間を呼び、仲間たちと一緒に松本だけでなく東京や関西にまで出かけて寄付を集めました。
彼の行動力は筑摩県をも動かし、博覧会の開催を実現させます。
5度開催された松本博覧会は、立ち入れなかった市民が天守に入れるという特別感によって人々の関心も高まり、大盛況で幕を閉じます。
量造の発想力と熱意で天守は買い戻され、そのおかげで松本城の天守は破壊の危機から救われたのです。

天守の修理と保存に尽力した人

Wikipediaより

松本城の天守は、もうひとりのメロスによって再び救われます。
明治9年に、量造をバックアップしていた筑摩県が府県統合で消滅すると、松本城の天守はだんだんと管理されなくなりました。
明治30年代になると、手入れ不足の天守は傾きが目立ちはじめ、崩壊の危機に見舞われます。

そこで立ち上がったのが、松本中学校の校長先生だった小林有也(うなり)です。
松本中学校はその当時、松本城の二の丸に校舎があって、本丸庭園に運動場があるという環境でした。
いつも近くにある松本城が朽ち果てていく姿を目にして、有也は苦しかったことでしょう。

松本天守閣保存会の設立

松本城
松本城(長野県)

有也は明治34年に「松本天守閣保存会」を立ち上げて全国に松本城の修理の必要性と保存を呼びかけ、2万円の寄付を集めます。
2万円は、現在のお金に換算すると1億円もの大金です。
その活動の中では、メロスのように『もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った』こともあったでしょう。
けれど有也は、量造と同様に信念を持って走り続け、ムーブメントを巻き起こします。

松本城は明治の後半から大正の初めの約10年の時間をかけて、有也の集めた寄付で「明治の大修理」を行ないました。
天守を残すことがゴールではなく、修理しながら末長く保存することが文化財を守ることです。
量造と有也のふたりが、時代を超えてバトンを繋いでくれたからこそ、松本城は今も美しい姿で存在し続けているのです。

私の思い

松本城に行って初めて、量造と有也の2人の存在を知りました。
現地に行って知ることって、本当にたくさんあります。
実は、ほかのお城でも「人々の熱意がお城を守ってくれた!」という出来事があります。
この「熱意」を、お城に行って感じてみましょう。

自分の目で見て、知ること、発見することって、とても大切。
そして自分で考えること、感じることも、とっても大切です。

たくさんの情報があふれる今、その場所に行かなくても知ることはできます。
けれど、自分の五感(視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚)で得られる情報量を超えるものはないと、私は思うのです。
ぜひ、実際のお城で、五感を使って感じてみませんか。

野口

お城の未来のために、先人が繋いだバトンを繋いでいきたい。私に何ができるのか……それを自問自答し続けながら、お城が継承されるように活動していきたいです。

この記事を書いた人

お城カタリスト